季夏の夕暮れ
暮れる日が早い。もう夏は終わりかけようとしている。懐から扇を取り出した
フェイトは、落ちかける太陽の熱に照らされ額から汗を一、二雫垂らして、シランドの
大路を歩みながら顔をぱたぱたと扇ぐ。前髪が揺れるのが視界をちらつくと、そろそろきっておく
べきだろうな、と恨めしそうに汗でひっついた毛先を見ながら思う。閑静なシランドの街中では、北に位置する分、本来ペターニより残暑となる
筈であるが、気分としては幾らか涼やいで感じることが出来る。それでもこの夏は厳しかった。
元々フェイトは地球暮らしで高度な文明に囲まれて育ったため環境の変化には慣れていない。無論、こういった
暑さも凌ぐ手立てなどは持ってはいたが、この星で暮らすからには感覚を共有したい(もっとも自己満足の類に過ぎぬことは
わかってはいたようだが)ということで、擬似的にシミュレートしてそういった環境に近づけているのであった。とはいえ
酷暑の時などは本当に後悔して誘惑に駆られることに陥ったのも二度や三度ではないのだが、寸でのところで思いとどまって
はいる。
兎も角、フェイトにとってのこのエリクールの夏は厳しいものであった。が、その厳しさが有難さも教えてくれた
ということもまた真であった。冬には見ているだけで厳しかったアーリグリフの寒さが、夏になればその気候が
暑さを凌いでくれるというわけである。当然の事でも地球暮らしの時には実感しがたいものであった。作り物では
あっても、この染み入る暑さもまたこの星にいることを認識させてくれる大切なものである。
手ぬぐいで額の汗を時折拭いながら、ようやくのことシランドの城門へ到る。街や城を囲む堀には聖珠セフィラから
流れいずる水がはられており、更にそこからくみ上げられた水路では子供達が裾をあげてきゃっきゃと飛沫を掛け合う
姿も見受けられる。
城門には城から澄んだ高い声が届き、また、子供達の姿を羨ましげに見つめる門兵の姿が。やや老いた熟練の兵と、若手の新米の兵という組み合わせである。
フェイトはねぎらう様にその二人に声をかける。
「この暑いのに、ご苦労様です」
「ああ、フェイト殿」
半ばだらけた様子ではあったが、二人の衛兵はすぐさま姿勢を律して見慣れた顔に挨拶を返す。
「何、一時期に比べればまだマシなほうです。アペリス様も今年はお元気が過ぎましたからなぁ」
「本当、真面目に抜け出してしまおうかと思ってしまった程ですよ。あ、これは冗談ですからクレア様にはくれぐれも……」
「誰にも告げ口なんてしませんよ。ただアペリス様に聞かれていたからって僕は知りませんけどね」
「ハハ、真冬にはお元気であらせられたほうが……と、不信心が過ぎましたかな」
「しかしコレばっかりは、人の力でどうにかなる事ではないですからねぇ。俺達も祈るくらいか方法ないからなぁ。
施術使いなら氷の技などがあるそうですが」
「流石に焼け石に水でしょう。涼しくなってもせいぜい一瞬でしょうし」
「いやいや、アドレー様程になれば、涼しくなる位、術を持続させることが出来るやも知れませんぞ」
「へぇ、それは凄いや。流石は生ける伝説ってとこですかね。居候なさっているんでしたっけ。フェイト殿もひょっとしたらその恩恵に」
「あの人は『暑いのう』なんて言いながら大声で笑ってるような人ですから。それに、あの人の前で暑いなんて
ぼやいたら、ワシのスピキュールはもっと熱いぞ、なんて言ってかましてきかねないですからね」
「さ、左様ですか。其れは流石に尊敬して已まない方とはいえご勘弁頂きたいところですな」
「あ、ひょっとして逃げていらっしゃったとか?」
「そんなところですけど……クレアさん、いや、光牙師団長に少々――」
「む、畏まりましたが、少々お時間がかかりますぞ。そろそろ終わりの時間ではありますが、礼拝堂に
皆が集まって頌歌を歌い上げておられますからな」
成る程、今この耳に届いているのがそれかと納得する。
「そうそう。今聞こえているコレが、ええと、確か……何番でしたっけ?」
「僕に聞かないで下さいよ。終わる頃にもう一度訪れたほうが良かったですか?
日が暮れてからこれば良かったかな」
「いや、中でお待ち頂ければいいのではないですかな。外よりは多少涼しいことでしょう」
「そうそう。追い返したなんて言われた日には俺達が首になっちまいますよ」
「ではお言葉に甘えて。礼拝堂には入らないほうがいいですよね」
まさか邪魔するわけにもいくまい、と、図書室の方向へ脚を向けようとしたが、
「モニュメントの前で涼んではいかがですかな。もっとも暑さを逃れようと団員が
群れているやも知れませぬが」
「俺達はこの場を離れるわけにはいきませんからねぇ。交代の時刻にゃお日様は沈んでいますしね」
そのぼやきにやや苦笑を返しつつ、フェイトは噴水のあるモニュメントに向かう。この城自体、廊下に
水路が張られており、水の街とも言われるシランドという都市の象徴に相応しいつくりになっていることが
見て取れる。
歌声に誘われるように辿りついた礼拝堂ほど近くのそこには、城に勤める師団員ほか文官たちの姿が見て取れた。軽く会釈を
すると、同じように返って来る。猛暑にぐったりとしながら、皆少しでも涼もうとしているのか水の湧き出る
噴水近くに陣取っているものが多い。休憩時間が終わったのかしぶしぶながら重い体を動かして戻っていくものも
いる。
人ごみと窓から差す日差しをやや避けるようにして腰掛けて、耳を澄ます。届くのは礼拝堂からの合唱と、荘厳でどこか掠れた伴奏の
音だった。どういう曲なのかが気になって、近くの団員に尋ねてみる。
「すみません。この曲って……」
指を立てて聞くフェイトに顔を向けた男は、ぼんやりとしたまま、ああ、と、答えを返そうとしながら一瞬詰まる。
「頌歌集の、確か……詳しくは覚えていませんが、200番台ではないでしょうかね」
208、と横から口添えをされると、あわててそうそう、と男は言いなおす。
「頌歌集?」
「そう、ああ、ご存じないですか。解放女王と聖ロナルドの――」
「成る程」
シーハーツの建国の祖である二人をたたえる歌というわけか。そう言われれば、この耳に届く歌に乗せられた
詩にも得心のいくものがある。
「よく歌われるのですか?礼拝堂ではこういうものが」
「ええ、ま、全曲歌われるわけじゃなくて、抜粋で、ですけどね」
「全部歌うには長すぎるということですか」
「それもありますけどね」
「それも?」
「ええ。こういうものに興味がおありで?珍しいですね。ええっと、フェイト殿。グリーテンの方
だとお聞きしましたが」
「いいえ、別段そういうわけではありませんでしたけど、聞こえてきたから少し気になって」
「そうですか。興味がおありでしたら大神官様にお聞きになったほうが宜しいでしょう。私もあまり
詳しいほうではないですし……そろそろ持ち場に戻らねば怒られてしまいますし」
「あ、わざわざどうも。頑張ってください」
「いやいや、ではこれで」
その姿を見送りながら、差し込む日が当たって、床の色が変わり行くのを見る。橙に近づくそれに
意識が吸い込まれそうになる。
態勢を崩しかけたが、傍から見れば滑稽に見えたに違いない。気恥ずかしくて半笑いで誤魔化すように
する。光の差し込む側に目を向けると、その色彩と耳に届く音彩は、限りなく同じものを指しているように
思えた。
傾けた耳に届いていた旋律が終息に向かい、ついに途切れる。暫くすると、ぞろぞろと白い修道服のような
ものを纏った女性達が礼拝堂の側の廊下から流れ込んでくる。その中から一人を探すのは困難にも思えるが、
衆目を様々な意味で集める人であるので、特に探すような真似はせずぼんやりと眺めるだけであった。
人の流れも途切れたが、一向に姿を現さなかったので不安になる。流れてきた一人に声をかけ、クレアの
所在を確認すると、まだ中にいるということであった。邪魔をするのは悪い、と再び腰掛けて待つことにする。
「あら、フェイトさん」
慈しみの心が篭ったような、暖かな声が聞こえる。待ちわびていた人の声である。彼女は歩み寄ってきて、
心底申し訳無さそうな顔をする。
「どうやらお待たせしてしまったようですね」
かえってそんな顔をされるとこちらが申し訳ない気持ちになってしまう。慌てて立ち上がっていえいえ、と
クレアと同じような顔をする。
「約束をしてあったわけではないですし、忘れ物を届けるようアドレーさんに申し付けられただけですから」
まぁ、とクレアは眉を顰めるが、その表情もどこか愛らしく見える。美人というのは得だな、などと心の
隅で思う。
「まぁ、わざわざ私のせいでご迷惑をおかけして、すみません」
「いえ、迷惑なんて思っていませんよ」
クレアは二重三重にも所在なげになるが、フェイトはそれを笑顔で抑える。ようやくにして差し出したものを
クレアは受け取る。
「それにしても、フェイトさんを小間使いのように使うなんて……父には後ほどよっく言い聞かせておきますから」
拳を握り締めるクレアをまぁまぁ、とおさめながら、
「僕も居候の身ですし、多少のお手伝いはさせて下さいよ」
「フェイトさんがそう仰るなら……」
どこか渋々といった様子をクレアが見せる頃、ぽ、ぽ、と城壁のランプに灯が点る。やわらかな光であった。
窓から差し込む光は気がつけばもう大分弱くなっていた。そちらに目をやるクレアの横顔を見ながら、供に廊下を
歩く。
「ああ、日も少々短くなってきましたね。まだ暑さは残っていますけど、暦の上では明日から秋ですね」
クレアはどこか感慨深げである。
「夏の終わり、ですか?」
「昼間になったら夏がいつまでたっても終わらない、なんてことを言ってそうですけど」
苦笑するクレアのうなじに汗が一筋落ちていたのが、妙に艶かしく感じて、顔を背けて窓に向ける。日没は
ここからでは見えない。
「今年はやけに暑かったそうですからね」
「ええ、ですが、フェイトさんは来たばかりですから、今年がどうなんてことはわからないんじゃないですか?」
「でも、みなさん仰ってますから。でも今年が厳しいのだったら、来年は楽に感じることが出来るかも知れないから
ある意味幸運なのかも」
「ふふ、でも夏は暑いものですから。楽、なんていう風には感じないかも知れません」
「そんなものかも知れないですね。でもとりあえず、明日からは暦の上では秋。ならこの日が落ちれば、
夏の太陽にはさようならということですかね」
くすくす、おかしげにクレアは顔を伏せて笑う。
「夏も冬も、太陽は――アペリス様はアペリス様です。さようならも何もありませんよ」
「そりゃそうですけど、ううん、なんていうか」
腕を組んで考えるも、言葉はついてでない。クレアはやはりその様子をおかしげに見ていた。妙に照れくさくなって、
話を慌てるようにしてそらす。
「そ、それは兎も角として、先ほど礼拝堂で歌っていたのは――」
「ああ、聖ロナルドとシルヴィアT世の――」
「そう、それです。どんな由来のものなんです?いや、教会音楽であるとか、その二人に関するものであるって
ことはわかるんですけど」
見透かしたような笑みで、相変わらず肩を微かに揺らしながらもクレアはそうですね、と懐から一冊の書を取り出して、
「仰るとおり御二人の遍歴を歌ったものなのですけど、元からしっかりした形がある、というよりは、残っていた歌、民謡の
ようなものを集めて編纂したものなんです。今現在定本となっているのは、光王によるものですけど、他にもいくつかあって
ここに採られていないけれども他では採られている、というものもあるんですよ」
「へぇ……」
編者名の所にある名は確かに光王と呼ばれた女王の名に一致するものだった。とはいえその名を知ったのはシーハーツ史を
さらったつい最近のことなのであるが。
「結構俗っぽいのもあるので読み物として面白がる人もいるんですよ。本当に雑多に集められたので矛盾するものだって
あるのですけど」
ぱらぱらと頁を捲ると、まるで英雄二人には似つかわしくないような話もあるが、いきいきとした様子だけは
伝わってくる。
「それで光王のものについては――」
講釈に耳を傾けていると、いつの間にか門を通り過ぎてしまったようであった。
「ああ、いけない」
「ご、ごめんなさい。私も気がつかなくて」
「いえいえ、完全に僕の失態ですから――クレアさんはお仕事まだあるんですよね」
「ええ、残していた分がいくつか。ヴァンに全部任せるわけにもいきませんし」
「お疲れ様です。無理はしないで下さいね。本当は僕もお手伝いできるといいんですけど、そういうわけには
いきませんしね。それじゃあ僕はお先に」
「はい、道中お気をつけて。暗くなるでしょうし」
手を振って笑顔で見送るクレアに一時の別れを告げて、門を出る。門の衛兵は交代を済ませて
おり入ってきたときとは別の者たちに替わっていた。
ご苦労様です、そう頭を軽く下げてから、シランドの街を行く。外灯には既に灯りがつき、空が
焼けているのも建物の陰に隠れて見ることができず、星と月がくっきりと姿を現していた。
ふと立ち止まり、太陽が隠れているであろう方角をじっと視る。
暑さこそ引いてはいないが、それでもやはり何かそれに名残惜しげなものを感じずにはいられなかった。
夏の最後の太陽が沈み行く。フェイトはそれに向かって何かを呟いたが、それを聞いていたものは誰も居なかった。
※
「只今帰りました」
ラーズバード邸につくと、早速この家の主が足音をどたばたと立てながら駆け寄ってくる。
「フェイト殿!存外早かった……おや、クレアは?」
「まだお仕事が残っているそうですよ」
そっけない応対であるが、どうにもクレアのアドレーに対する態度がうつってきているようだ。アドレーは上半身を
曝け出した巨躯をわなわなと震わせると、
「ばっかもの。フェイト殿、なぜクレアをまっておいてやってくれなかったのだ」
「え?だってそんな……」
「若し帰宅中にクレアがならず者に襲われたらどうするのだ?」
「クレアさんを襲うような輩は残らず返り討ちにあいますよ」
「む?じゃ、じゃがな。コホン、フェイト殿は女子の心がよく判っておらん。一人夜道、となれば
心も寒くなろう」
「はぁ……クレアさんはそんなことも無いと思いますけど。待っているなんて思わせたら、余計疲れさせて
しまうんじゃ」
「だ、か、ら、じゃな。こういうときは、ほれ、隠れて待っておるもんじゃ。一人侘しく帰ろうかと思っていた矢先、
フェイト殿が横から現れるんじゃ。優しく手をとってだな」
呆れて苦笑することしか出来ないが、アドレーはいたって大真面目でなにやら変な一人芝居まではじめだした。
うんざりしたフェイトはその場から逃げ出そうとするが、
「良いか、部屋を一室貸している恩を持ち出そうというではないがな、出来ればもう一度迎えにいってやって欲しいのう…
で、き、れ、ば、で結構だしフェイト殿に無理強いするわけでは無いがな。この老い先短い……」
くるりと踵を返して、フェイトはうなだれて諦めた表情で、拳を握りながら、
「行ってきます」
そう告げてまたシランド城までの道を行った。
「おうおう、多少遅くなっても気にせんでの。何なら……」
どうせ残りの台詞もどうしようもないことだから気にしないことにして。
その後、へこへこと頭を下げて三度四度謝罪したクレアが夜の帰道を行くとき、どのような顔でいたかは
俯いていて誰も知ることはなかったが、明け方に、にやついた半裸の親父がシランドの濠に叩きのめされて浮かんでいた
ことだけは記録にも残っているという。