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きりんぐ・たいむ
きりんぐ・たいむ
寄宿しているラーズバード邸の門前が見える頃になると、一気に溜まっていた疲れが押し寄せて来た。
真面目に付き合うのではなかった、という後悔とともに。はぁ、とため息をついた彼、
フェイト=ラインゴットは、先頃迄この邸の主である、アドレー=ラーズバードの
朝の運動とやらに付き合わされていた所であった。
「全く、勘弁してほしいよ。アドレーさんにはさ」
つい愚痴がついて出るとはいえ、逆に感心もしてはいる。年齢的には盛りである筈の自分を
遥かに上回るだけの気力、体力。フェイトとて元々ユニバーサル・バスケを嗜んでいるわけで、
並の人間ではとても及ばぬだけのものは持ってはいる。そもそもからして、生まれた環境からいっても
フィジカルでは地球人とエリクール人では地球人が圧倒的に優位な筈なのである。にもかかわらず、自分の年齢を
二倍してなお余りあるアドレーは星間規模での人種の違いを軽く吹き飛ばすほどの力を持っているのである。
「……とはいえ、僕がああなりたいわけではないけれど」
改めて見直してはいるし、ある意味尊敬もしているのだが、それでも憧れはしない、と断言出来る。
もう勘弁してくれ、とこちらが音をあげると、そんなことでは娘はやらんと訳のわからないことをのたまって来る
始末である。別にやるとかやらんとかそういう問題ではあるまい、と呆れて去ろうとすると人のことを仕舞には「つんでれ」
よばわりときたものだ。いったいどこからそのような珍妙な知識を仕入れるのだろうか。そもそもからして意味が間違っている。
びゅうっと吹く風は、肌を刺すほど冷たい。最早冬である。
早いものだ。今頃アーリグリフは白く雪に覆われ、人々は自然と闘っているのだろうか。兎も角、まだアドレーは体が
動かし足りないらしく、フェイトと分かれてどこかへ行ってしまった。まぁいつものことといえばそれまでだろうか。
フェイトの前に小走りで寄ってくる者がいる。門前の見張り番であった。フェイトよりも更に若い少年で、
小姓といった風情である。珍しく何かに動揺しているようである。
「フェイト殿、お客様が……」
「お客?」
アドレーへの客人であろうか。だが、彼はいつ帰宅するかは判らない。
「アドレーさんなら、僕と別れてからもまだ動き足りないとかで……例によっていつ帰ってくるか
わからないですよ」
門番は、いいえ、とやたら大きく首を振る。そこまでオーバーリアクションする必要もあるまい。
「アドレー様ではなくて、貴方にお客様が……」
「僕に?」
自分を指差して目をぱちくりしている姿は、滑稽でもある。
「兎も角、急いで下さいませんか?」
「え?あの、ちょっと?」
ぐいっと裾を引っ張られる。少々強引なやり方にむっとするフェイト。
「ちょ、ちょっと、一体何だって言うんです?お客様をお相手するならもっと落ち着いてからでないと……」
「では急いで落ち着いてください!」
無茶な注文である。屋敷の中では何故か中の侍従たちまでが迎え入れ、急げ急げとせかしてくる。一体何なのだ。せかせかとフェイトの
着物に手をかける侍従たち。
「ちょっと、上着脱ぐくらいは自分で……」
「いえ、お客様に万一失礼があってはいけませんから」
何かおかしい。この屋敷の侍従は、なまじのことでは慌てぬ筈なのである。そもそもからしてここはラーズバード邸。
私邸ではあるが、訪れる客人は何れも超一流所ばかりである。自分のような人間ははっきりいって場違い極まりないくらい
である。兎も角、そういった客人の扱いにも、アドレーが引き起こす騒動のようなものにも揺るがぬことがこの屋敷の人間の
強さである筈なのに、この慌て様は一体。しかし、その答えはフェイトが頭の中で解決するより先に、一つの声が解決する
事となった。
「困ったものですね。そんなに慌てぬともよいと申した筈なのに……」
どことなく仄かで心地よい重みをもったよく通る女性の声。普段よりは若干柔らか味を帯びているように感じる。
否、こちらが本来のものなのだろうか。侍従たちの動きが無意識に硬くなる。
「お願いだから楽にして下さい。難しい注文であるのはわかっていますが」
「「「「「はっ」」」」」
返事は良いものの、本来無理な注文である。中には余計にガチガチに固まってしまっているものもいる。
予め心の準備でもしていれば別だが、急な訪問とあっては無理も無いか。仕方ない、と、いった風に微苦笑しながら、
フェイトのほうを客人は向く。齢のよく知れぬ顔立ちだが、目の保養になるのは確かである。最もそのような言葉は
この客人に対しては不遜に値するのだが。
「お久しぶり、でしたか。フェイト殿」
ローブの下に仄かに隠したその忍んだ笑みは、独特のものであった。元来魯いフェイトですら何者も替わることの
出来ない気品を客人から肌で感じる。目の前に坐すのは紛れもなくこの国の唯一無二の至高の座につく者、シーハーツ女王にして
アペリスの巫女、ロメリア=ジン=エミュリールその人であった。
フェイトは今の状況におかしみと緊張を感じている。そしてそれ以上の疲れを、である。隣を歩く女王はくすりと口許を手でしなを作り
隠しつつ、フェイトをうかがう。
「いかがなされました?フェイト殿」
――いかがも何も無いだろう。それが偽らざるフェイトの内心ではあるが、せいぜい肩をがくりと落とすことでしか
フェイトはそれを表現しえない。一方のロメリアはと言えば、その立場に相応しくないほど飄々としたものである。その鱗片は
以前も垣間見たことはあるとはいえ、それでも矢張り今ここに居るロメリアのイメージと、フェイトが持っている女王としてのイメージにはそびえる
壁のような大きな隔たりがある。きっと何時まで経っても慣れはしないだろう。初めて謁見の間にて邂逅した時の、あの神々しさを今でもフェイトは
くっきりと覚えている。ああいう感覚を人に覚えるということは、地球ではもう恐らくありえぬことなのだろうとも思う。科学の持ちうるものとは違う
神秘を、確かにこの星は持っているということなのだろうとフェイトは自ら結論づけていた。
「帰りたいとお思いですか?フェイト殿」
優しく包み込むような声色に、はっと遠くにやっていた意識を戻す。何やら勘違いをさせてしまったらしい、と、フェイトは大きく首を二回横に振る。
それも懐かしくないと言えば嘘になるが、今頭に思い浮かべていたのは違う懐かしさである。
「いえ、陛下のご尊顔を初めて拝謁した時のことを」
まぁ、そんな――とロメリアはやや顔を俯かせてくっくと肩を揺らす。何が可笑しいのであろうとフェイトは首を傾げる。
「このような場でそのように堅苦しい……いえ、ですがフェイト殿、そのようなお顔をなさるほど、昔のことでもありますまい?」
言われてみれば確かに、である。ここ一、二年で出会ったこの星の人々に対して、ずっと昔から共にいたような感触を抱いてしまっている。
考えてみればこの星に自分が残っていること自体が最大の不思議である。ロメリアは見澄ましたように大きく頷きながらやや天を眩しそうに見上げながら
つぶやく。
「まぁ、色んなことがありましたし」
そう、有りすぎるほどあった。「色んなこと」、その一言に到底おさまるような内容ではないほどのものが。恐らく一生のうちであれほどの密度で事件
――それも途方もない規模の――が起こり、かつそれに巻き込まれ、時にはその事件の目に自らがなっていた、などということはもう二度と無いであろう。いや、
絶対にあってほしくはない。よく生き残ってこの場に居るものだとすら思う。尤もそういった個人のことにおさまるようなものではなかったのだが。
「……っと、そうではなくて」
近くて遠い昔に思いを馳せかけて、かぶりを振って意識を戻す。同じような思いはロメリアも抱いていたのか、フェイトの声にはっとしたように振り返る。
「え?」
「いや、え、でなくて」
そもそもからしてフェイトは今この状況がつかめていない。ロメリアに付き合って下さいませんかと、強制力を伴った懇願をされて、こうして連れ立っている
わけであるが、その目的を少しも聞かずにいた。彼らしい人の好さなのか、或いは迂闊さなのか、単純に女王に対しては頭が回らなくなるのかは判別がつかぬが
恐らくはそのいずれでもあるのだろう。
ラーズバード家は流石に名家であるわけで、屋敷以外にも家領としての土地を幾つか所領している。今踏みしめている土は、その内の一部のものであるそうだ。
で、あるからして、ラーズバード家所縁の場所であることは明明白白なのではあるが、目的まではとてもつかめぬ。
「ああ、お気になさらず。余計な心配など要りません。じきに判ります」
そういう言い方をされると余計に気になるのが人情というものであろう。しかし相手が相手である。粛々として従う以外には選択肢はあるまい。一対一で女王に
突っ込むほどの胆力は無い。
それにしても、である。――健脚だな。フェイトはそう思わざるを得なかった。あまり気を抜くと置いて行かれそうになる速度だ。フェイトにしても別段怠けている
積もりはない。そもそも怠けたくてもアドレーがそれを許さぬ。大体からして女王も結構な年齢――ではなくて、デスクワーク中心というか四六時中屋内型にならざるをえない
立場の人間ではなかったか。元地球人としての立場を見失いそうになる自分を蒼髪の青年は感じていた。
「あ、フェイト殿」
その声に反射的にフェイトは振り向く。
「足許、お気を付けを」
却ってその台詞に気を取られたせいでつま先に段差があたりよろめく。流石に盛大にすっこける真似はしなかったが。
「だからお気を付けを、と申し上げましたのに」
右の眉を下げて苦笑する女王に対して文句はやはり云えぬ。フェイトは足許からふと目線を上にあげた。
そこには小さな丘があった。特別綺麗だとかそういうわけではない。緑あふれるシーハーツ領においては別段珍しくもない丘である。
ただ溢れる清浄な空気を、フェイトはその肌に今になって感じることができた。
「ここはね、フェイト殿、私たちにとっては、ほんの少しだけど大事な場所なのです」
「私……達?」
少なくともフェイトにとって自分はまるで関係がない、見知らぬ場所である以上、ロメリアと誰かほかの人物にとって、ということになろう。
詮索する積もりは特にはないが。
山道というような険しさはないが、脚には地味にくる道を登る。季節の気配か土の匂いが踏みしめるたびにするような気がする。
「ええ、遠い遠い昔のこと、なんて言うと年寄り染みて聞こえるでしょうが」
「そんなことは……」
「でもまぁ、そんなことは今は余り関係ないのかもしれません。いえ、でもないこともないのでしょうか?」
「……僕に聞かないで下さいよ」
曖昧な言い方ではあるが、それを愉しんでいる風にも見えるロメリアは、傍から見れば変わり者である。もっとも従者もつけずこんな所をほっつき
歩いている時点で変わり者ではあるか。とはいえ先ほどから気配はかすかに感じるので影から見守るものの一人や二人はいるということであろうが。
「フェイト殿」
また足許に気をつけろ、とでも言うのだろうか。しかしロメリアは忍ばせたその唇に指を縦一文字に置いて、
「少し、お静かに」
とフェイトに静寂を保つよう促し、細腕でフェイトの裾をひっぱる。草叢の陰に隠れるようにするフェイトとロメリア。流石にこの段に至ってはフェイトも疑問を
ぶつけずには居られない。
「陛下、一体――」
ロメリアはその問い答える代りに、ちょいちょいとフェイトの肩を指先でつつく。フェイトがその指先を注視したのを確認すると、その視線を導くように一方に向ける。
そこには周りより一段大きな樹がそびえていた。その樹は頑強な幹に支えられて一際目立つこと以外は、この丘自体と同じく変哲のない樹である。しかしその外見とかけ離れた
儚さをフェイトは何故か感じた。理由ははっきりとわかるものではない。というより恐らく理由などないのであろう。
その大樹の前には一人の妙齢の女性の姿があった。それはフェイトにとってよく見知った人の姿である。ただたたずむだけの彼女にフェイトは声をかけることができず、不自然に
草叢の陰に隠れたままそこから出ていけない。普段見せぬような陰鬱さが、そこから香ってくるようでもあった。一体この場には何があるというのだろうか。さらさらと風で緑の葉が擦れる音がする。
それだけが静寂の中で音階を奏でるようにフェイトの耳に木霊したような気がした。
「何か御用ですか?そこに隠れている方」
それを破ったのは、振り返らず声をかけたクレアであった。フェイトはその声に金縛りをとかれて、大人しく彼女の前に姿を現す。とはいえ、どういった顔を
していいものか悩みはしたのだが。何となく気まずい。別に自分自身が何か悪いことをしたわけでは何もないのだが。
「フェイトさん?なぜこちらへ?――」
振り返ったクレアの瑠璃の瞳に宿っているものが、フェイトへの非難というよりは純然たる驚きであったことがフェイトを幾分かは救った。
「いえ、実は――」
女王に連れられてと説明しようとしたフェイトだったが、考えてみればクレアが自分にしか声をかけなかったことを疑問に思わなかったことが迂闊ではあった。
先ほどまで女王がいた場所にはもう既に彼女の陰も形も無かった。良くも悪くも只の女王ではないな、と改めて嘆息を一つしつつ、諦めたように、
「まぁ、色々あるということですよ」
「はぁ――お察しします」
鋭い人で色々救われる、とフェイトは妙なところで好感を抱いた。不思議なことにこの女性といるとあまり疲れない。これは異郷にあってはありがたいことである。ゆっくりと
草を踏みしめて銀髪を風になびかせる女性による。同じように大樹を正面に見た。先ほど肌に覚えたような不思議な感覚は、今も変わらない。
「大きな樹ですね」
そんなありふれたとしかいいようがない感想しか、フェイトは口にすることができなかった。流石に彼も口にしたことを恥じたほどである。
クスリと上品にこぼしたクレアは、その幹を見上げて白い掌をそこにかざす。
「フェイトさん、ここには私にとって大切な人が眠っているんです」
「――え?」
「いえ、私にとって、だけではないんですけれどもね……この場所は、母が好きだった場所、なのだそうです」
「クレアさんの母君が――」
突然、フェイトは何とも云えぬ申し訳なさに襲われる。そのような場所に自分がいていいのか。
「ふふ、お気になさらず。フェイトさんも我が家の一員みたいなものですから」
「あ、有難うございます」
えもいわれぬほど暖かな言葉が身にしみるが、しかしやはり場違い感はぬぐえぬ。それにしても眠っている、というのは…とその地を這う根を見下ろす。
下らぬ怪談の類がふとフェイトの頭をよぎる。こうべを振るフェイトを見澄ましたかのようにクレアは苦笑する。
「そういう意味じゃありません。お墓は別にちゃんとありますし――ただ、この樹は沢山の思い出が詰まっていると母に聞かされたことがあります」
沢山の思い出、そのクレアの台詞にはたと思いいたった。ロメリアが私たち、といった中にはクレアの母の姿も含まれるのではなかろうか。幾分か
フェイトも腑に落ちたようですっきりしたような表情をした。にしてもである、先ほどの彼女の、クレアの陰鬱に見えた表情は何だったのだろうか。
「フェイトさん?私の顔に何かついています?」
やや疲れているようにもその顔が見えたフェイトはやや口ごもる。
「いえ、あまり無理はなさらないよう気を付けてくださいね」
「無理、ですか?」
クレアは首を傾げる。その仕草がフェイトの瞳には妙に可愛らしく映るが、そんなことは口にはしない。
「いえ、お疲れのように見えて」
ああ――とクレアは納得したようにしつつ、首を横に振る。銀の髪がさらっと流れるようになる。
「そういうことでは無くて、本当に仕方のないことなんですけれどね」
「仕方ない?」
「悩みではありませんけど……ともかく、情けない話です」
「そういうのって、誰かに話せば楽になるって言いますし……さし支えなければ、お聞きしますよ。僕なんかでよければ」
自然にフェイトの口からでた言葉に対して、クレアは静かに瞼を閉じてこくりと頷いた。
「それじゃあ、お言葉に甘えちゃいますね」
「……越えられない?」
「ええ――」
フェイトは訥々と語るクレアの言葉にただうなずくだけであった。別にそれは苦痛でも何でもなく、寧ろ自分にとっては有意義なものであるのか、時間が過ぎるのが
早く感じる。クレアの様子をみると、大樹の木陰にいながらフェイトと語っているうちに、その陰影は晴れていくようであった。
「こうして、クリムゾンブレイドとして、光牙師団長として職責を果たし、そして剣の腕を磨いても磨いても……母にも父にも私は到底及びません」
偉大すぎる父、か。確かに師団長としてのアドレーのカリスマは矢張り彼女にとっては到底及ばないところにあるのだろう。というよりアドレーはどこまでいっても
天然の魅力というものが兼ね備わっているように思える。あれを手に入れるということはおそらく無理だし、その必要はないようにフェイトには思える。
「母はとうに亡くなっていますけど……ずっと私にとって目標だったんです。幼いころからずっと……」
「素晴らしい方だったんでしょうね」
「身内が言うのもなんですけど、私にとって憧れの人でした」
クレアは大きな、自分の陰を覆うようなその大樹を見上げつつつぶやく。倦みつかれたのとは違う、どこか諦観のようなものまで混じっているように思えた。
何のかんのいってそういう顔をすること自体がつかれている証左でもある。
「そう、この大樹のような、包むような、決して敵わないような……」
「そうですか……」
「ふふ、なぜだか最近そんな自分が情けなく思えてしまって」
「偶にはそういうこともありますよ」
「そういうものでしょうか」
「ええ、僕だって全然関係のない父に、無意味な嫉妬心を覚えてしまったことあるくらいですし。それとは比べ物にはならないでしょうけど」
「フェイトさんのお父上は確か……」
「はい、世界随一の天才科学者、でした」
あの争乱でなくなった父を思い返すようになるのも久しい。息子ながら薄情なものだと自分で思いフェイトは自嘲する。
「でも、次第に気にならなくなりました。父や母が、自分は自分だって言ってくれましたしね。だからって遊びほうけていたのはちょっと反省してるんですが」
それがまさか身を生かすことにつながったことは今でも信じがたいことではある。しかしシミュレータでの経験がなければ今頃この身はここになかったであろう。
「とはいえ、クレアさんだってそれはわかっているんですよね。でも、たまにそんな風に思って…」
「ええ、剣を究めようとすればする程、母から、――極みから、母から遠ざかって、わからぬかっていくような気がして」
クレアの母親は一廉の、というより名をとどろかせるほどの剣士であったらしい。何せあのウォルター老と比肩するやもしれぬとまで言われた程であるそうだ。と、
すればこのシーハーツ一の使い手だったということにもなろう。ふっと溜息を空に消すクレアに対して、フェイトはふと珍しい表情を見せる。
「ねぇ、クレアさん、それはきっと違うんですよ」
「え?」
「クレアさん、こっちへ」
クレアの腕をむんずとつかむ。そして樹に触れるほど近くで、
「クレアさん、きっと今の貴女が、ここの貴女です。それで」
きゃっと声をあげるのにも気を取られず、フェイトはそのままクレアをひいて数十歩下がる。何故かどきりとした心臓をクレアは抑える。らしくない。が、その
らしくなさをどうやらクレアは不快には思っていないようではあった。
「ちょっと昔のクレアさんが、ここのクレアさん」
「ああ――」
なぜだか妙に満足そうなフェイトに、思わずクスリと笑いながらもクレアは幾分かだけは納得した。確かに近づけば近づくほどわからなくなるもの、とはあるだろう。
今の自分はそれに陥っていると年下の食客は教えてくれたのだ。フェイトにしたって彼女を救おうなどとは思っていない。気分が軽くなればそれで儲けもの程度の考えで
ある。でも、多少なりともそれで顔が晴れるならうれしいことである。穏やかな笑みが彼女にはよく似合うし、そういった顔を自分に向けていてほしいとまで彼が考えて
いたかどうかはよくわからないが。ともかく、と息をひとつつくフェイト。
「まぁ、あまり変に考えこまないほうがいいですよ」
「父をみならって、ですか?」
片目をぱちりと閉じたささやかなクレアの反撃にフェイトは目を丸くする。
「いえ、あそこまでっていうとちょっと困りものですけど……」
こらえて口を押さえるクレアにつられるように、肩を並べたフェイトもそっと笑いをこぼす。丘を静かに流れるその声に、風が鳴らす木の葉の音が華やぎを添えた。
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